27歳で自転車に乗れるようになったこと

27歳で離婚しようと決めた時、真っ先に思ったことは
「自転車に乗れるようになりたい」
だった。

小さいときに乗ってみたいと母にせがんだことはあったけど、
「自転車は危ないから」
「女の子が乗るなんてはしたない」
「ましてやスカートでまたがるなど言語道断」
「自分の稼ぎで生活できるようになって自分で自転車を買って乗りなさい」
と断られてしまった。
母も自転車に乗れない人だった。

それでも上京して一人暮らしをしていた大学生のころには、何度かこっそり練習したことがある。
そのたびになにか清々しく悪いことをしているような、たとえば親に隠れて煙草を吸うとか、お酒を飲むとか、そんな気持ちになるのだった。

地元に帰って結婚した。
夫はものを教えるのが上手な人で、それを生業としている人だった。
そんな夫は自転車を教えることには一層自信があるようだった。
初めは半信半疑だったが、事実、学生のころには何回覚えようと思ってもできなかった麻雀や花札が、夫に教えてもらってすぐにできるようになった。
「ミャンマー人も30分で自転車に乗れるようになったんだぞ!」
というのが彼の口癖で、ミャンマー人のことは知らないが、なぜか説得力があって、だんだんと、そうか、そうかもしれないな、と思うようになった。

今までたくさんの人がわたしに自転車を教えてくれようとした。
例えば小学生のころに私の親の目を盗んでこっそり自転車に乗せてくれた近所の幼馴染とか、学生のころに付き合っていた恋人とか、大学生のころに自動車免許の合宿先で同じ部屋になった石川県の金髪のギャルとか。
あんなに優しい石川県の金髪のギャルですら匙を投げたのに?私が?自転車に乗れる?

結婚してから2年後のお正月に、離婚をしよう、と思った。
理由はいろいろとある。
わたしは人が「価値観の違い」で別れるとき、それはきっと何か言いたくないことをオブラートに包んだなにか、たとえば電車遅延のアナウンスで流れる「お客さま対応」であったり、「線路立ち入り」であったり、そういう隠語のようなことかと思っていた。

たくさんのことがあって、そのひとつひとつにはたくさんの理由があり、でも、それを「なぜ離婚したの?」という問いに一言で表しなさい、と言われたとき、「価値観の違い」としかまとめようがないのだ、と気づいた。
それは方向性の違いとか、人生の解釈違いとか、そういうことだった。

今までの二人の生活の中で、なにか一つでも得た実感がほしかった。
結婚して、休職して、退職してしまってからは専業主婦だった。
まわりは仕事を続けている。
離婚をしたところで、本当に私はやっていけるのか。
ここで自転車に乗れなかったら、私は一生自転車に乗れない気がする。

自転車を教えてください、と夫に頼んだ。
メルカリで、子どもが使い古した膝あてと手袋を買う。

車に折り畳み式の自転車を積んで、住んでいるところから10分くらい走らせて見つけた、あまり人のいない大きな公園の、ゆるく傾斜のついている丘の上。
最初は自転車を持って歩いてみる練習。
ひたすらにバランスを取りながら坂を下りる練習。
地面から足を離せたら、ペダルに足を乗せる練習。
ペダルをこぐ練習。
坂道を登ってみる練習。
ハンドルを曲げてみる練習。
左回り。右回り。
膝裏をペダルで打つ。足がもつれる。手のひらを剥く。よろめく。つまずく。ころぶ。倒れる。起きる。自転車に体重が乗る。体を預けることができる。身体の感覚が拡張される。自転車という道具を、身体を動かすことの延長として、操作することができる。

夕方、下校中の小学生に応援してもらいながら、私は1時間で自転車に乗れるようになり、次の日にはそれなりに自由に操縦できるようになった。

ミャンマー人よりは時間がかかってしまった。
きっと運動神経の良いミャンマー人だったのだろう。

そうして私は夫に、
離婚してください、と告げた。

結婚してからしばらく連絡を絶っていた母に、離婚後再会したとき、自転車に乗れるようになったよ!と自慢すると、母はたいそう目を丸くして、こう言った。
「その歳でも乗れるようになるのね」
「ごめんね、おかあさん考え方が古かった」
「結婚前に同棲させてやればよかった」
「ごめんね、ごめんね」

いまはまた東京にいる。
面接のためのスーツと最低限の下着をスーツケースに入れて、新幹線に飛び乗って上京した。
幸いにも、住む場所と仕事を得て、それからずっと東京で過ごしている。

あれから一度も自転車には乗っていない。